進撃の隣人ーシェアハウスから見る孤独死
https://twitter.com/itm_nlab/status/1032239228560670720
つい先日ツイッターのモーメントで話題になったこのエンディング産業展の1ブース。
お寺さん、墓石屋、葬儀屋、などに混じって産業展覧会なのに1件、現代芸術展とも言える展示があったので記事にしようと思います。
今回のエンディング産業展はいわば「終活フェア」
従来の葬式を執り行う寺、葬儀屋、仏壇屋、棺桶屋、墓石屋とその他の産業から高齢化社会で湧くエンディング産業に参入したい企業の産業博覧会でした。開催地は東京ビックサイト。
スタイリッシュなミニマルデザインおりん
新時代のお墓まいりサービス
不動産高騰時代にコミットメントしたコンパクト仏壇
就職...じゃなくて終活セミナー
スマート納骨堂
終活エージェント[パワーワード]
散骨の時代はもうバルーン!gkbr
これは良いなと思ったんですが
故人との手紙のやりとりを見てくれるお寺さんもありました。住職さんと立ち話しました。
とここまでは全て生前に終活する金銭と時間の余裕のある故人のサービスです。もしくは近親者が亡くなったときの周囲の人が利用できる企業のマッチング。
1つだけ「死」により深く踏み込んだ清掃サービス業者さんもありました。おそらく不動産オーナーなり行政対象なのでしょうか。
全くエンディング産業事業者でない私。これが見たくて足を運びました。
ブースには孤独死現場の写真そしてそれと共にミニチュアで遺体があった部屋の再現がされていました。現場の状況のテロップも。
壁一枚向こうで人間と動物が息を引き取っているのを見に行けず、とか。
ロフト付きの物件で切り詰めた生活の果て。
この数年新聞記事で独居の高齢者や生活に困窮した若年層の孤独死していた人の死に至った経緯の記事などを度々読みました。しかし実際に写真とミニチュアでみるとまた違う現実感がありました。天井一枚だけ上で人が死んでいる。それを知らずに生活する。
「養鶏場の鶏でも、隣上下の鶏が死んでいたら気づくものでしょ」と意地をはることもできますが、2年ほどアパートで暮らしていた自分には「くる」ものがありました。
騒音やゴミ出しで鬱陶しく思うだけのアパートの住人がちゃんと生きてるのか?、私が死の淵にいてやがて自分の体から異臭を放ったとき、隣人は?
平成世代は子供の頃から様々なメディアに触れてきていて特に言論を担ってきたのは間違いなくテレビなのですが、隣人トラブルや個人情報保護やストーカー被害の対策の重要性をワイドショーのネタとして伝えることは都市生活市民の心を掴みやすいものだということはわかります。しかし仕切られた箱の中で生産活動を続ける私たちの終末は?という問いをつきつけられたようでした。
プライバシーによって首を絞められた人々の箱を見ていて、自分がまちづくりとしてやってきたことはこの超高齢化・都市化社会のカウンターだったのだと違う角度から見えてきました。そのかなりふわっとした抽象的な社会現象の恩恵のひとつで、シェアハウスという生活様式(ライフスタイル)は0mで他人の生活と介するもの、独居社会の究極のカウンターです。
「もしも」の時のため、せめて半径500mの人間のしている生活を把握しているか?
50日に1回くらいは自分の暮らしぶりをさらけ出す人がいるか?
血の繋がった人と家の行き来をしているか?
わざわざ言語化しないでも昭和世代はやってきたであろう「自分以外との人間とのかかわり」が失われたのが、高度経済成長の産物なのだと考えていました。
価値観の多様性、自分の生活の自由が確保されることは素晴らしいです。
しかしそのバラ色の生活の終わりがいずれ自分の体から階下に血を流すそんなミニチュアを見ました。
自分以外の人間に生活が侵食される不自由が表裏一体で同時に私を守るセーフティネットとなる。
この写真のお葬式、とでもないですが覚えていることが新鮮なうちに書き留めておきたかったものなので、もう少しまとめて積極的に他人とのかかわりを持つことや自立と依存について今後もブログにしたいと思います。